以下、東京タワー「リリーフランキー」より抜粋。
子供ができて困る人もいれば、子供ができずに祈る人もいる。
子供ができて「まさか自分に子供ができるなんて」と驚く人もいれば、
子供ができずに「まさか自分に子供ができないなんて」と驚く人もいる。
子供の頃に予想していた自分の未来。
歌手や宇宙飛行士にはなれなくても、いつか自分も誰かの「お母さん」や「お父さん」にはなるんだろうなぁと思っている。
しかし当たり前になれると思っていたその「当たり前」が、自分には起こらないことがある。
誰にでも起きている「当たり前」。いらないと思っていた人にも届けられる「当たり前」が、自分には叶わないことがある。
難しいことじゃなかったはずだ。叶わないことじゃなかったはずだ。
人にとって「当たり前」のことが、自分にとっては「当たり前」ではなくなる。世の中の日常で繰り返される平凡な現象が、自分にとっては「奇蹟」に映る。
歌手や宇宙飛行士になることよりも、はるかに遠く感じるその奇蹟。
子供の頃に夢に破れ、挫折するなんてたいした問題じゃない。単なる職業に馳せた夢なんてものは、たいして美しい想いじゃない。
でも、大人の想う夢。叶っていいはずの、日常の中ある慎ましい夢。子供の時は平凡を毛嫌いしたが、平凡になりうるための大人の夢。かつて当たり前だったことが、当たり前でなくなった時。平凡につまづいた時。
人は手を合わせて、祈るのだろう。
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私の感想。
このコラムが、一番、心にずしんと来ました。
「当たり前」を語っている訳ですが、「当たり前」に過ごす人には、この「当たり前」は見えない。
「当たり前」から、こぼれ落ちた人だけが、この「当たり前」を感じることができる。
…疎外感。
平凡という日常の幸せの中にいると、そのありがたみを感じることができないのと、似ています。
私はたいしたことは言えませんが、この「当たり前」を分かって生きているのと、
知らずに生きているのでは、大きな差が生じるのではないかと思います。
どちらが、良いとか悪いとかではなく。
「当たり前」を当たり前にするか、奇蹟にするかは、運命なのです。
それは生まれ持ったものだと、思うのです。
人の人生は、そんな紙一重の積み重ねでできている。電車一本で人生が変わることもあります。
そんな「運」を引き寄せるのは、やはり日頃の行いか、神か仏か先祖の、ご加護ではないでしょうか。
だから、人は最終的に祈るのでしょう。どうしようもないときに、祈るのです。
どんな災害の現場をみても、人はみな祈っています。
食べ物を食べるときも「いただきます」と手を合わせて感謝の気持ちを表します。
普段から祈ってみましょう。神棚でも仏様でも神社でもお寺でもお墓でも、また空に向かって…そんな時間を作ってみましょう。
何かが起こる前に、日々の「当たり前」に感謝しましょう。
それは自分ではどうにもならないことがあると、認めることになります。
それは一歩、へりくだったことになります。
そこから見えてくる世界があると思うのです。