以下、リリーフランキー「東京タワー」より抜粋
「親子」の関係とは簡単なものだ。
それはたとえ、はなればなれに暮らしていても、ほとんど会ったことすらないのだとしても、親と子が「親子」の関係であることには変わりがない。
ところが「家族」という言葉になると、その関係は「親子」ほど手軽なものではない。
(中略)
「親子」よりも、更に、簡単になれてしまう「夫婦」という関係。
その簡単な関係を結んだだけの、ふざけた男と女が、成りゆきで親になり、仕方なく「家族」という難しい関係に取り組まなくてはいけなくなる。
(中略)
しかし、家庭関係は神経質なものだ。無神経で居られる場所ほど、実は細心の神経を求める。ひびの入った茶の間の壁に、たとえ見慣れて、それを笑いの種に変えられたとしても、そこから確実にすきま風は吹いてくる。笑っていても風には吹かれる。
立ち上がって、そのひび割れを埋める作業をしなくてはならない。そのひび割れを、恥ずかしいと感じなければいけない。
なにかしらの役割を持つ、家族の一員としての自分。親としての自分。配偶者を持つ身としての自分。男としての自分。女としての自分。すべてに「自覚」がいる。
恐ろしく面倒で、重苦しい「自覚」というもの。
(中略)
「夫婦にしかわからないことがある」よく聞く言葉だ。それは確かにあるだろう。
しかし「夫婦だけがわかってない、自分たちふたりのこと」は子供や他人の方が、涼しい眼で、よく見えているということもある。
どれだけ仕事で成功するよりも、ちゃんとした家庭を持って、家庭を幸せにすることの方が数段難しい。
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以下、私の感想。
生活環境は時代とともに変化する。家庭環境も同じであろう。
その昔、農業を主体としていた時代は、すべてが一から時間をかけた手作業。村や部落、近隣、親族、家族で協力しなければ、すべての作業を遂行することは困難であった。
代々、その土地に住むことで、昔からの付き合いという、地縁を強めていった。だから転居もしない、できない。
関係性を良好に保つ=収穫、に直結していたのだ。
個を抑え、集団に属することで、生計を保っていたわけだ。そうしなければ円滑に生きていけない。
だが近代化・産業革命後は、仕事や生活の変化により、家庭や地域での共同作業は消失し、集団から個人へ、そのおもきが変わっていった。
現代の家庭というものが、個を主張しすぎているのは、いつも感じることだ。他者を思いやる気持ちよりも、自分の主張が大きい。個の主張が大きい人は、一様に社会でも集団生活が苦手である。
モノを大切にする気持ち。生き物を大切にする気持ち。他者を大切にする気持ち。
他者を思いやる気持ちは、愛である。愛ってなんだろう?
ただ、一つだけ言えることは、愛を育むことは、家庭でしかできない。